カリンバは、夢を囁く。

「……なんやねん……なんでおまえこんな……なんでこないになっとんねん……」
 病室に入った羽場はば大起ひろきは、ベッドの脇に立ち尽くした。
「……大事な日やと言うとったがな……失敗できひんって……それがなんでこんなところでこないなことしとんねん……」
 恵の青白い頬を、そっと右手で撫ぜる。
「いっしょに淡路島に河豚食いに行こうって言うてたよな? まだ行ってへんぞ? ひな連れてドッグランで走り回って、それから焼肉食べ放題付きの温泉連泊の豪遊もまだしてへんぞ? どないなっとんねん……」
 額にかかっていた一筋の前髪をそっとあげて直す。
「まだあるぞ? バリバリ稼いで豪邸建ててくれるって言うたよな? 家政婦雇うとかも言うたな。俺が刑事辞めても食わせてやるって言うたやろ? それやのに……」
「申し訳ありません……。私が付いていながら……」
 ベッドの足元に立った本村が、深々と頭を下げた。
「いや、範香ちゃん、あんたのせいやないで。予測不能の事態や、こっちは誰も悪くない。だから……」
 羽場は恵の両頬を両手で包むと、絞り出すように言った。
「……なに呑気に寝とんねん、めぐみ紗羽さわ……さっさと起きて働き!」
「――っるさいなあ! 耳元で喚くな!」
 怒鳴り声とともに、恵ががばっと起き上がった。
「脳震盪起こして今も頭痛がすんのよ! 少しは静かに寝かせなさいよ、あたしは被害者なんだよ!」
 右手で頭を押さえながら、羽場を睨みつける。
「やかましいわ、ボケ! どんだけ心配したと思うてる、心臓停まるかと思うたぞ! こけたくらいで仕事に穴あけるな! とっとと現場戻れ!」
「監督が寝てろって言ったのよ! 一発撮りの予定だったのに衣装台無しだし、準備の都合もあんの! こんなとこで怒鳴ってないで、とっとと犯人捕まえてこい、ボケデカ!」
「言われんでも行くわ!」
「あ、あのっ、恵さんも羽場さんも、落ち着きましょう」
 本村がふたりの間に割って入った。いつものことだとわかってはいても、とりあえずは止めてみる。
「とにかく大事に至らなくてよかったです。羽場さん、恵さんはいいお仕事されてたんですよ、そこにアレでしたから……。それに恵さん、羽場さんってば真っ青になって飛んできてくれたんですよ、ほんとに無事でよかったですね」
 それぞれにこう声をかけて、恵にガウンを羽織らせ、羽場には椅子をすすめる。手慣れたものだ。
 ふたりがひとまずは黙ったので、本村は軽く息をつきながらスケジュール手帳を取り出した。
「お医者さまの話では、軽い脳震盪だけだそうです。エントランスホールのシーンは市役所側から明日もう一度撮り直しの許可がでましたから。体調がなんともないなら、夜の公園のシーンに出ると連絡を入れます。どうしますか?」
「ごめんね、範香。いつも世話かける。あんたがマネージャーでよかったわ。夜シーンは予定だと何時?」
 ため息をつきながらそう言った恵に、範香はにっこり笑って。
「十九時です。まだ十分に時間はありますよ」
「いいわ、行く。大起、送って」
 そう言いながらベッドから出ようとした恵を、羽場が左手をつかんで引き留めた。
「おい、無理すな。時間あるなら休んでろ」
「やめてよ。さっさと起きて働きって言ったくせに」
「言葉の綾や、そこの繊細なところをしゃんと分かりぃ」
 それは恵もわかっている。お互い照れ隠しの言葉遊びだということも。口は荒くても、とんでもなく優しい人間だということは十二分に知っている。だから、何年もいっしょにいるのだ、飽きもせず。
「ほんとだいじょぶ。北田さんのスケジュールの都合もあるだろうし、やれることはしなきゃ」
 恵はやんわり笑って羽場の手を逃れるとベッドを下りた。
「それよりおなか減った。時間あるならごはん連れてってよ、大起。範香もいっしょに」
「え。私は」
「わかった。『ほっかいど』のオムライスでええか? 好きやろ?」
「範香、予約して」
「俺がしとく。範香ちゃんはこいつの着替えなんとかしてやって」
 本村が流れを理解しようとしているうちに、話は一瞬でまとまったらしい。
 羽場はスマホを取り出しながら、病室から出て行った。
「あの、恵さん」
「ごめんね範香。うちはいつもこうだから」
 それは知っている。
「着替えある? ジーパンとかでいいし」
 言われて、本村は部屋の隅に置いていたスーツケースからジーパンとセーターを選んで手渡した。
「みんなに迷惑かけちゃった。お詫び、手配できてる?」
 着替えながらの恵の言葉に、本村はにっこり笑顔で答えた。
「夜食とカフェケータリングカーの手配をかけました。もう現場に入ってます」
「うん。ありがと」
 恵も笑顔になる。
 ノックの音に続いて、閉まったドアの外で羽場の声が告げた。
「めぐ。『ほっかいど』とれたで。西口に車回しとくから目立てへんように来い。まだ野次馬うろうろしてるから」
 返事を待たずに医師に挨拶している声が聞こえ、医務室のドアが閉まる音がした。
 本村は、使ったベッドを整えながら独り言ちた。
「いいなあ。うらやましい」
「腐れ縁よ。あたしでいいって言うからいっしょにいるの」
 髪を整えながら恵がそう応えた。
「よし、おっけ。行こうか」
 髪型も少し変え、簡単にメイクすると、恵は本村に向かってにっこり微笑んだ。
 忘れ物がないか確認をして、ふたりは病室を出た。女性医師に丁寧に礼を言うと、医務室を後にし、市役所の裏手になる西口に向かった。

     ☆

「のえるぅ、あるふぅ、ひさしぶりぃ」
 店の入り口からは一番奥、店の正面から見て左側にあるカウンター席の影になるような位置にある壁際の席に座ると、恵はさっそく店の看板犬たちをわしわしと撫でまわして抱きしめた。犬たちも嫌がるでもなく、ふりふりと尻尾を振って応えている。
 市役所から車で十分ほどの場所にある「ほっかいど」は、レトロな雰囲気でさまざまな世代から支持を集めている老舗の喫茶店だ。近隣には保育園から高等学校までの教育機関が多いため、客足もそんなに途切れない。来る人が必ず頼むオリジナルブレンドコーヒーとママ手作りの味であるオムライス、そしてシェットランドシープドッグの「音笑流ノエル」と「空流風アルフ」がこの店の自慢だ。
愛弓あゆみママ、突然ごめんね。忙しいのに無理言って席とってもらって」
 犬たちをハグしたままで恵がママである犬塚いぬづか愛弓あゆみに声をかけた。
「いいのよ。めぐちゃんとひろちゃんが揃って来てくれるなんてどれだけ久しぶりだと思って? 大歓迎。はい、おまたせ」
 ママはそういうと、運んできたオムライスをそれぞれの前に置いた。
「わーい、いただきまーす」
「恵さん、声大きいです」
 にこにこで合掌した恵に、横から本村が小声で釘を刺す。
「ほんとよ、めぐちゃん。学生さんたちも来てるから、バレたら噂になるわよ。おとなしくね」
 にっこり笑って「ごゆっくり」と付け加え、ママはカウンター席の方へと去った。
「バレてもいいじゃん。昔からの常連なんだから」
 文句を言いつつ、恵はオムライスをぱくつく。
「気遣いがわからんヤツやな、おまえはほんまに。一応芸能人やねんから、騒ぎになったら店にも迷惑かけるやろ。自重せぇ」
「はいはい」
 向かいに座っている羽場にも釘を刺されるが、適当に返事をして受け流す。いつものことだ。
 と。そのとき、入り口近くの席から素っ頓狂な声が聞こえた。恵は普段のくせで反射的に動きを止め、その場に固まる。
「……なに?」
 固まったまま小声でつぶやく。
「大丈夫や。高校生やな。なにかの相談かな、男ふたり女の子ふたり」
 そう言って羽場はごく自然に席を立ち、カウンター席へ移る。
「ママごめん、お水もらえる?」
 本村が周囲をさりげなく見まわした。
「大丈夫です。いまは他にお客様はいません。席は離れているし、あの子たちには恵さんのことは気付かれてないですよ」
 それなりにファンがついている俳優なので、街中で気軽に食事など滅多にできない。自分の身は自分で守る必要があった。周囲でなにかが起こっても、素性がわかるような行動を避けるくせがついている。また、マネージャーの本村がついてくれているのが、咄嗟の時にはとてもありがたい。しかも今は羽場がいっしょだ。安心感は普段の比ではないが、それでも急なことには体が反応する。
「普通に食べて大丈夫ですよ。羽場さんがカウンター席で壁になってくれてます」
 本村に再度促されて、恵はやっとつめていた息を吐くとオムライスを口に運んだ。
 件の高校生たちは、さっきよりは幾分落としているが注意して聞けば内容がそれなりに把握できるような声で話している。
 そういえば自分もそうだったな――食べながら、恵はそう思った。周囲のことなんてあまり考えていなかった。友達同士が一番で、わいわい騒いで笑いあって。今から思えば、この店にも迷惑をかけていたのだろうと思える。
 めずらしく過去の自分の所業を反省しつつ黙って食べていたが、ある声がまた恵の手を止めた。
「恵さん?」
 また固まってしまった恵に、本村が声をかける。
「どうしたん」
「黙って」
 恵は小さな鋭い声で本村の口を遮ると、高校生たちの声に意識を集中した。
 とぎれとぎれだが、かなり気になる。
「恵さんっ?」
 いきなり席を立つと、恵は高校生たちのところへ向かった。
「どないした」
 羽場が自分の脇を抜けようとした恵の服を引っ張って止めた。
 が、恵はそれを振り切る。
「めぐっ」
 小声で制したが、恵はそのまま彼らの席へ。
 高校生たちは、入り口近くの四人掛けの席でお互いの額がくっつくような距離まで顔を寄せ合ってなにかを相談している。
「……だからさ、そんなの鈴乃さんがするわけないって」
「そうだけど――」
「ん?」
 近づいてきた足音に、女の子のひとりが顔を上げた。
 それに気づいた三人も足音の方を向いた。
「あれ」
「あ」
「え?」
 ついでに羽場も、なぜかカウンター席を立つと恵の隣に移動し、そして。
「……摩利まりくん?」
 こう声をかけられた彼が、ゆっくりと口を開いた。
「……羽場さん。姉さんも。なんでいるの、こんなとこに」
「え?」
「ちょっと? なにこれ」
「ねえさん?」
「おい、まり」
「なんで?」
「どういうこと?」
 一瞬の沈黙のあと、その場にいた全員がそこに集まり、一斉にしゃべりだしたためになにがなにやらわからないことになる。
「ちょ……ちょい待て! ちょっと黙れっ」
 羽場のその声で、とりあえず全員が黙った。
「よし」
 羽場がその場を仕切る。
「まず、摩利くん。なにしとんねん、こんなとこで」
 訊かれて、さっき「姉さん」と言った彼が口を開いた。
「なにって、友達と喫茶店でお茶、だけど。てか、羽場さんも姉さんもなんでこんなとこに?」
「ちょっと、安藤くん。知り合い?」
 摩利の前に座っている眼鏡をかけた女の子が小声で訊いた。
「知り合いって」
「……恵さんだ……」
 答えようとした摩利の隣で、もうひとりの彼が呆けたようにつぶやいた。
「……ほんものだ……ほんものの恵さんだ……」
「はい?」
「宮園くん、なに言ってんの?」
 女の子ふたりは首をかしげる。
「恵さんって……え?」
 眼鏡ではないほうの彼女がなにかに気付いたようだ。
「どしたの夏凜かりん。誰? っいたたたっ」
 まだ首をかしげている眼鏡の子の頭をがしっとつかんだ夏凜が、彼女の顔を無理やり恵のほうに向かせて叫んだ。
「くるみ、よく見て! 恵紗羽さん! 君影出身の!」
「……は?……え……ええっ?」
 やっと眼鏡のくるみにも事の重大さが伝わったらしい。
 そこで摩利が、ひとつ咳払いをすると口を開いた。
「えっと。三人とも。紹介するけど、いい?」
 呆けている心崇も、ドングリ眼で口をパクパクしている夏凜とくるみも、摩利を見た。
「こちらが、女優の、恵紗羽さん――ていうか、羽場はばめぐみ。隣が羽場大起さん。そのうしろが恵のマネージャーの本村範香さん。ぼくの――実の姉と、義理の兄と、従姉です」
 一瞬の静寂があり、そして。
「ええええええーーーーーーっ!!!
 三人が、一斉に、絶叫した。
 くるみと夏凜は恵のほうを向いたまま抱き合って酸欠の金魚状態に陥り、心崇はなぜか摩利の首を絞めあげる。
「はいはいはい、わかったから。とりあえず落ち着こうか、みんな」
 羽場が心崇を摩利から引き離し、カウンターから愛弓ママが飲み物を運んできた。
「みんな、落ち着いて。もうしょうがないわね、めぐちゃんは。あっちで食べてればみんなにはわからなかったのに」
 四人と、そのテーブルまで近くの椅子をひっぱってきて座った恵と羽場、そのうしろの席に座った本村に、それぞれコーヒーや紅茶、ジュースを配る。
「これはサービスね。お店はちょっと一時的に閉めたから、範香ちゃん安心して。めぐちゃんもひろちゃんも仕事あるんでしょ? 話あるならさっさとして戻らないと。ね?」
「愛弓ママ、ありがとう」
 恵のその声に、ママは「十五分だけよ」と笑ってカウンターの中に戻る。
「あの、姉さ」
「摩利」
「はいっ」
 話しかけようとしたのを鋭い声で制され、摩利は慌てて返事をした。叱られるものだと構えたが、それに反して恵からは予想外の言葉が出た。
「さっきの話、詳しく言いなさい。どういうこと?」
「さっきのって……」
「ごめん、断片的だけど聞こえたの。ほんとなの?」
 その言葉に、高校生四人組の顔色が少し悪くなった。憧れの芸能人に会えた驚きもわくわくも一瞬でひっこみ、全員が真顔になる。
「あー、それは俺も聞きたい。やけに不穏な話だったな」
 隣から羽場も恵に同意する。
「すずの、さん? そのひとが行方不明とかなんとか言ってなかったかな?」
 羽場の口調から関西弁が抜けている。これは彼の仕事モードの話し方だ。出身は関西で小学校に上がるまではそっちで育ったため身内相手には地が出るが、普段、対外的には関西訛りは出さない。TPOで使い分けをしているらしい。
 恵には、羽場の言葉遣いから、彼がこの件にかなり興味を持っていることが容易にわかった。
 そう。羽場はおそらく「事件」になるかもしれないと思っていることが、はっきりと。
 摩利は、不安そうな女の子たちと隣に座ってうつむいている親友と、目の前にいる姉と義兄を順に見て、そして決心したように大きくため息をついた。
「心崇、もうこうなったら話そう。実は、義兄さんはすずらん署の刑事なんだ」
「えっ?」
 摩利の言葉に、心崇が顔を上げた。
「ぼくらだけでなにができるとも思えないし。それに、帰ってこないんだからやっぱり警察に話したほうがいいって。捜査対象になるかならないかは別として」
 そう言われ、しかし、心崇はまたうつむいた。
「摩利、みんなのこと紹介して。ここで四人でなにしてたの? なにがあったの?」
 恵がさらに促す。
「そうだよ、宮園くん。話そう? あたしたちだけでみつけられるとは思えないよ」
「うん……別に悪いことしてるわけじゃないもの。大人の手を借りるべきだとあたしも思うわ。しかも刑事さんなら、知恵くらいは貸してくれるかもよ?」
 くるみと夏凜も真剣に心崇に話しかける。
 それでも心崇はうつむいたままだ。
 しばらく間があったが、摩利が心崇をみつめて口を開いた。
「話すよ、心崇」