カリンバは、夢を囁く。
三
ちょっとへんだな、あのひと。なにか困ってんのかな。
彼女は、市役所のエントランスホールを背に右手奥突き当りにあるトイレ前の廊下で、大きなガラス窓の外をみつめてそう思った。
前庭の櫟の大木の下で、黒いキャップを目深にかぶった男性が、胸のあたりになにかを大事そうに抱えてそわそわしていた。
手を拭いていたハンカチを市職員事務職制服のベストのポケットにしまい、さらに思う。
困ってるなら誰かに聞けばいいのに。ここ、市役所なんだけど?
時間は平日の昼下がり。天気もいいし、繁華街に面した場所にあるため周辺はかなり人通りが多い。しかも黒キャップの彼がいる場所は市役所の敷地内だ。目の前を何人も通り過ぎていくのだから尋ねればいい。
彼女は窓から視線を外すと、エントランスホールへと向かった。
と。
目の端になにか黒いものが通り過ぎたので、自然とまた窓の外を見た。
黒いタートルネック、黒いロングコート、黒いスラックス。黒いサングラス。
全身黒ずくめの人物が件の男性に向かって突進していく。そして。
「きゃあっ!」
窓の外を見ながら歩いてた彼女は、廊下の隅にあったアルミ製の大きなごみ箱にぶつかりそれを蹴り倒した。かなり派手な音がしてごみ箱は廊下を転がり、その音は窓の外の通行人の足をも止めた。
やばいやばいやばいっ! めっちゃ注目浴びた、みんな見てる! はずかしいっ!
「大丈夫ですか?」
エントランスホールのドアのところに立っていた警備員が彼女に駆け寄り、手を貸す。
「すみません、ありがとうございます」
赤くなりつつ礼を言うと、制服のベストとスカートをぽんぽんとはたいて整える。
彼女に怪我がないことを確認した警備員は、倒れたごみ箱を直し始めた。
無意識に彼女はまた窓の外に目をやった。通行人は窓の内側で起こったことには別段気にも留めていないようで、普通に行き来していた。
が。
目が、合った――ような気がした。
黒ずくめの人物と、黒いキャップの人物。
しかしそれも一瞬、彼女は自分の仕事を思い出し、警備員にお礼をするとエントランスホールへと向かった。
えっと、次は総合受付前で……
頭の中で仕事の手順を反芻する。
と。
「おい、あんた! ちょっと!」
ホールの自動ドアのところで大きな声がしたかと思った次の瞬間。
どん!
「は? わっ……」
黒ずくめの塊が、真正面から彼女の右半身にまともにぶつかり、そしてそのまま庁舎の奥へと走り去った。
「痛ぁ……なにいまの。……あら」
いきなりぶつかられてその場に倒れた彼女は、起き上がろうとして床についた自分の右手を見て動きをとめた。
「……なにこれ。赤いじゃない」
右手が、べったりと赤黒い液体に染まっている。液体の出所を突き止めようと目で追っていくと、右脇腹のあたりから同じ色の液体がゆっくりじわじわ服に染み出し、それが床に広がっていくのが見えた。
「おい、あいつをとめろ!」
大勢の足音と怒号。
奥に走り去った黒ずくめの人物を追う何人か。
人員整理に慌てる何人か。
「恵さん!」
グレーのスーツを着た女性が、倒れている彼女に駆け寄る。
「恵さん、だいじょぶですかっ? ちょっとこれ……誰かお願いっ!」
「やだ、さわがないでよ、だいじょぶよ、ころんだだけだって……」
「大丈夫じゃないです! 動かないでください、いま手当てを!」
は? なに言ってるの? 手当てってなに?
「おおげさね、ころんだだけだって……あれ?」
笑いながら起き上がろうとしたが、からだに力が入らない。
「恵さんっ、しっかり! お願い、誰か!」
あたし……どしたんだ? なんかふわふわする……。やだあ……なんかこれってすっごい……イケてるんじゃない……? うふふ……
「――さんっ、めぐみさ……」
自分の名前を呼ぶ声を遠くで聞きながら、彼女の意識は、ことんと途切れた。
☆
市役所業務は通常に戻っていた。しばらく野次馬でごった返していたが、今はエントランスホールもそのほかの場所もいつもどおり機能していた。
市役所一帯に一時的に張られていた規制線も解除されている。
いったいなんだったのか。
眞嶋は、恵が違和感を持った人物を最初に見たという場所から外を眺めて考えていた。
窓の外の植え込みにある大きな櫟の木の下にいたという黒いキャップを被った人物。
そして、その人物に向かって行ったらしい黒ずくめの人物。
その黒ずくめが、エントランスホールで恵を突き倒して逃走した。
なんとも意味のわからない事態だった。
窓の外にいた人物が、なぜ庁舎内へ突入して女性を突き飛ばして逃走した?
それが起こったときに近くにいた関係者などに聴取はしているが、いまのところ意味のあるような事柄は出てきていない。
すべてが偶然の産物なのかもしれない。
が。
眞嶋の勘はそれを否定していた。
絶対に、なにか意味がある。
「すみません、お待たせしました」
グレーのスーツを着た女性が、眞嶋に声をかけた。
「こちらへお願いします」
眞嶋に一礼すると、先に立って歩きだす。眞嶋もそれに続いた。
庁舎の奥へと進み、通路脇の階段を下りると地下一階にある医務室へと案内される。
「眞嶋」
ドアの前で、同じ捜査一課の桑田愛心に呼び止められた。グレーのスーツの女性を先に室内へ入れドアを閉める。
「どうです?」
「こっち側的にはブルー。でも、向こうさん的には対応が大変だろうね」
桑田はそういうと大きく息をついて、肩にかかった栗色の巻き毛を右手でうしろに払った。濃紺のパンツスーツと白いカッターシャツ、紺のプレーンパンプスというこの姿だけを見たら、役所の職員と言っても普通に通るだろう。が、彼女はノンキャリアの叩き上げの刑事で、階級は警部補。なんとなく凄みのある美人ではある。
「ちょっと顔だけ見とけば。こっちは念のために鑑取りしとくから、そっちは黒キャップ頼む――って、あんた休みだったね」
眞嶋の右手のエコバッグを見て彼の現状を思い出したらしい桑田は、ふっと笑った。
階級的には桑田は眞嶋の上だが、年齢はそう違わない。お互いノンキャリア組で切磋琢磨してきた仲でもある。桑田が昇進してからは、眞嶋はなるべくため口は避けていた。歳も一応は桑田が少し上なので、そこも配慮している。
「もう別にいいですよ、あとひくと嫌な感じがするんで地取り向かいます。食べる? いちごパフェ」
桑田にエコバッグを差し出す。
「ううん、ありがと。新作よね、あとでコンビニ行くわ。じゃ、悪いけどお願い」
眞嶋の肩をポンと叩くと、桑田は階上へと向かった。
その背中を見送って、眞嶋は医務室のドアを開けた。
左手のデスクで書類を見ていたらしい女性医師が、眞嶋を認めると右手奥のドアへと案内した。
「失礼します」
二度ノックすると、中からドアが開かれた。先ほど眞嶋をここに連れてきたグレーのスーツの女性が、彼を室内に通した。
六帖ほどの病室。地下にある部屋なので窓はないが、市役所内にある病室だからなのか白一色の部屋ではなく、白を基調にその他の淡い色合いも取り入れた壁紙が使用されており、寒々とした感じはしない。ベッドが二床、手前と奥に置かれている。その中央に優しい色合いのベージュのプライバシーカーテンが天井から下げられている。
空いている手前のベッドの足元を通り過ぎ奥へ進むと、そこには青白い顔をした恵が寝かされていた。
「うちの桑田が言ってたと思うんですが、あとからいろいろお話をうかがうと思います。その手配はあなたにお願いしていいですか? 本村さん」
眞嶋は恵をみつめたままで、グレーのスーツの彼女に声をかけた。
「はい。すべて私がお手配いたします。ですから……お願いします。恵にこんなことをした犯人を絶対にみつけてください……」
本村は、眞嶋に対し深々と頭を下げた。肩が微かに震えている。
「最善を尽くします」
眞嶋も頭を下げた。
と、ポケットの中のスマートフォンに着信。
「ちょっと失礼します」
本村に断ると、眞嶋は病室を出てドアを閉め、着信相手を確かめながらそのまま医務室を出た。
「はい、眞嶋」
『羽場に連絡ついた。そっちに向かわせたから。すぐこっち来られる?』
相手は桑田。
「わかりました。場所は?」
『鈴里山公園の展望台』
鈴里山公園?
『言いたいことはわかるから言わなくていい。とにかく来て』
「――二十分で行きます」
『待ってる』
電話を切ると、病室に戻り、ドアをノックして開けた。
「本村さん」
ベッドの脇の椅子に座っていた本村は、いきなり呼ばれて驚いたのか慌てて立ち上がった。泣いていたのか、ハンカチで目元を拭いている。
眞嶋は彼女のそばまで行くと、そのまま再び椅子に座らせた。
「すみません、驚かせましたか?」
本村はゆっくりと首を横にふる。
「私は捜査に出ますので、いったんここを離れます。羽場刑事がこちらに向かっているそうです。まもなく着くと思うので、来たらよろしくお願いします」
「はい……わかりました。ありがとうございます」
本村は小さな声でそう応えると、椅子から立ち上がった。
「何卒……よろしくお願い申し上げます」
眞嶋に向かって、また深々と頭を下げ、そしてゆっくりと顔を上げた。目に涙がたまっている。
眞嶋はゆっくりと頷くと、病室を出、そのまま市役所をあとにした。
前
扉
先