カリンバは、夢を囁く。

 午後十二時半を過ぎ、つばさとさくらは昼食のため休憩に入った。
 すずらん台店は客足が途絶えることがあまりないため、二人体制のシフトが組まれている。ふたりの昼休憩は十二時半から一時間。店長とアルバイトが入ったことを確認し、ふたりは店から奥に下がる。
 ふたりとも、更衣室のロッカーからそれぞれの弁当を持つと、休憩室に入った。六帖ほどの広さがあるその部屋は、折り畳み式の長机一台と椅子が四脚、簡易のキッチンが付いており、冷蔵庫と電子レンジもある。この部屋の右隣が更衣室、左隣が事務室になっている。
 つばさがポットのお湯で二人分のお茶を入れている間に、さくらがテーブルの上をアルコールシートで拭いて整えた。さくらがお茶を配り、ふたりはテーブルをはさんで向かい合わせに座った。いつの間にかそういう分担が決まっていて、ふたりいっしょの休憩時はいつもこうしている。
「いただきまーす」
「いただきます」
 ふたりは、このコンビニで働き始めてかなり長い。つばさは高校生の頃からアルバイトとして勤務していた。現在はパート扱いだが、正社員を打診されている。さくらはつばさの高校の後輩で、やはり高校生のときにアルバイトをしていた。短期大学に進学したため一度辞めたが、その数か月後に復帰、短大卒業後もアルバイトをパートに切り替えて勤務している。ふたりとも店長にとても信頼されている存在だ。
「あ。先輩の今日の卵巻きおいしそう」
「ちょっとがんばった。だし巻き」
「えー。だし巻き難しくないです?」
「なに言ってんの。一番難しい料理は、目玉焼きなんだからね」
「はいはい、それはわかってます」
 つばさの言葉に頷いたさくらは、おとなしく自分のハムサンドを頬張った。
「あたしは真名まな様のような女性になるんだから」
 つばさはちょっと赤くなりつつ、褒められただし巻き卵をぱくつく。
「あっちゃん先輩、ほんとリューロン好きですよねえ」
「あたりまえよ。リューロンはあたしの目標なんだからね」
「流行りましたよねえ、『奏龍そうりゅうの騎士』」
 『奏龍の騎士』は、ふたりが高校時代に爆発的に流行ったアニメだ。龍の紋章を持つ少女たちが、その世界を守るために自分を育てる物語で、世界的なヒットになった。そのなかのひとり、リューロンこと真名というキャラクターは最強の保護の騎士だが、どうしても目玉焼きをうまく焼くことができないという唯一の欠点がある。つばさはこのキャラクターの大ファンだった。
「さくはどうなのよ、桃花とうかだっけ?」
「そうですねー、誰かってーと、ファーロンかな」
 ファーロンこと桃花は陽の騎士で、周囲を明るくあたたかくすることが得意なキャラクターだ。
「桜の形のアクリルカリンバ出てきたときには、これはあたしだわと思っちゃいましたよー」
「奏上! メイ・タオ・イン!」
 さくらの言葉を受けて、つばさがファーロンの攻撃呪文とポーズを披露した。
「先輩、ちゃんとカリンバ持ってやってくださいよー」
「ごはん中だからね」
 最後のだし巻き卵を口に放り込んで箸を置くと、つばさはお茶の入った湯呑を手にした。
「そういやあんた、サクラカリンバ買ったの? 青鈴さんの開封動画見てて、欲しいって言ってたじゃん」
「そうそう……って、先輩! 今日はMさんのライブでした!」
「あ! そうだった、まずい!」
 さくらはサンドウィッチの残りを慌てて口に詰め込み、つばさはお茶を一気に飲み干すと、ふたり揃ってぱんっと合掌。
「ごちそうさまでした! 急げ!」
 慌ててテーブルの上を片づけると、さくらがお茶を入れなおす。隣同士に座ると、つばさが更衣室から持ち込んだタブレットで動画サイトを表示する。
「間に合った」
「わーい」
 画面には、ちょうど始まったらしいライブ映像が映っていた。「M」というハンドルネームで活動しているカリンバ奏者のチャンネルで、今日は午後一時から十五分だけライブをやると告知されていたため、Mファンのふたりは楽しみにしていたのだ。
『こんにちは。忙しい平日の午後、ちょっとの時間なのに来てくださってありがとうございます。あ、こんにちは、ころんさん。こんにちはー、らどみさん。チャット欄のお名前読み上げていきますねー』
 画面には、あかるいベージュ色のテーブルの上に置かれたカリンバが一台のみ。さらっと明るめの、それでいて品がある澄んだソプラノボイスが流れている。
『今日は、忙しい日中のお昼時、ちょっと息抜きしてもらいたかったのと……いや、そうじゃなくて、新しい曲、披露したかったのが本音かな』
 うふふと小さく笑いながらMが続ける。
『それとね、曲のあとでちょっとお願いもあります。最後まで聞いてね。あ、MDさんこんにちはー。はーちゃんさん、正志伊藤さん、ヤジさん、マーシーさん、ピーサンタさん、山葵さん、るーさん、ミントさん、鈴蘭さん、みかさん、ふさふささん、天使の卵さん、かのすずさん。こんにちはー、ありがとうございます。ろはさん、メロディさん、小僧さん、みこりーなさん、のんのさん、ぴっぴさん、ひかりずむさん、めぐさん、真梨花さん、さちこさん、くみさん、かんとりんさん、あっこさん、しゅうさん、姫海月さん、ワン仔ラブママさん、朝霧ランさん。みなさんほんとにありがとう』
 つばさとさくらは、いつのまにか手を握り合って画面を見つめていた。満面の笑顔だ。
『じゃあ、新しい曲いってみます。今日はこの子、veludoの三十四キーで弾きますね。では聞いてください。〝祈り〟です』
 画面下から現れた白いきれいな両手が紫檀色の箱型カリンバを持った。一呼吸分の間があり、白い華奢な指がキーの上を滑る。
 静かに、天上の音楽が流れ始めた。
 チャット欄は、とたんに静まり返った。
 つばさとさくらも、その場で固まったかのように動けなかった。
 なんという。
 なんという、音。
 それはいままで聞いたことがない音で曲。Mはさまざまな曲を動画で配信しているので、彼女の演奏はそれこそ数えきれないくらいに聞いている。
 が。
 いままでの、それとは違う。
 こんな曲が、あったなんて。
 こんな音を奏でるものが、あったなんて。
 そのとき、唐突に歌が流れた。
 Mの、透き通った、静かな声。
 自身のカリンバの伴奏に合わせ、Mが小さな声で歌っていた。
 どこの国の言葉かわからない。日本語ではないことは確かだった。聞いたことがない言葉で綴られたその歌を、カリンバの音にのせて小さな声で。
 やがてその声と、カリンバの音が、静かにとまった。
 チャット欄は動かない。
 Mは、静かにカリンバをテーブルに戻した。
『はい、ありがとうございましたー。えへ、緊張したあ。はじめて披露する曲はやっぱり緊張しますね』
 照れくさそうな調子で、いつものMの声がそう告げたと同時に、チャット欄は怒涛の勢いで大量のメッセージが流れ始めた。
『あ、ありがとうございます。え? ほんと? よかった? 気に入ってもらえたかな。うれしい。そうなの、半分オリジナルなんですよ。そうそう、はじめてだから失敗しないかそればっか気になっちゃってて』
 うふふと笑いながら、メッセージに対して会話をしていく。それはいつものMだった。
 つばさとさくらは、手を握り合ったまま、画面を見つめて固まっていた。あまりの感動に、動けなかった。
『そうそう、うれしいなあ、そんなふうに言ってもらえたら。あ、でね、最初に言ったように、みんなにちょっとお願いがあります』
 チャット欄はまだ大量のメッセージが流れているが、Mは話し始めた。
『えっとね。みなさんそれぞれカリンバをお持ちだとは思うんですけど、古いの持ってらっしゃる方にお聞きしたいです。今日わたしが使ったこのカリンバとよく似た形のもの。キーはピアノ線の三十六キー、材質はアンダマンパドウクのソリッド型。そういうのお持ちの方はいらっしゃらないでしょうか』
 ぎゅっ
 つばさが無意識にさくらの手を握る手に力をこめていた。笑顔が消えている。
 さくらは、ゆっくりとつばさの顔を見つめ、また画面に視線を戻した。
 チャット欄が反応し、メッセージがどんどん流れている。
〝古いのって見てわかるの?〟
〝ピアノ線のは持ってないー〟
〝アンダなんとかってどんな木? 色は?〟
『古いって、それはそうですよね。まあ見てわかるほど「古い」って思ってもらっていいかな。実は、みんな知ってるあのひと、収集家としても有名な青鈴さんにも問い合わせてるんですけど、ちょっと連絡つかなくて。急いではいないんですが、情報欲しいんです』
〝Mさん、そのカリンバどうするんですか?〟
『あ、いい質問。実はそのカリンバで、今の曲が弾きたいんです。わたしが小さいときに、そのカリンバでこの曲の原曲を聞いたんです。それがずっと忘れられなくて、で、結局いまはカリンバといっしょに生活してるみたいなことになってます、うふふ』
〝わあ、すてきな話〟
〝青鈴さんが知らなかったらみんなわからないんじゃない?〟
〝親の代で使われてたカリンバだったらあるかなあ〟
〝アフリカ発祥でしょ? 現地のモノだったらどーすんの?〟
 Mの言葉を受けて、さまざまな会話がチャット欄で進んでいく。それを読みながら受け答えをしていくMの声。
『そうですねえ、学校教育にカリンバが取り入れられたのは比較的最近だし、まだそんなに普及してないですよね。でも、かなり以前から授業でカリンバ使ってる地域もあるし、そういうところでは古いものもあるかもしれないですね。青鈴さんとはまだ連絡がとれてないだけなので、連絡とれたら即解決しちゃう案件かもしんないですね、ごめんなさい。でも、みなさんが持ってるカリンバの情報、普通に気になるのでよかったらコメント欄に入れてください。楽しみにしてます』
〝はーい〟
〝喜んで!〟
 Mの言葉が、探しものという少し深刻そうな話題からちょっとずれたので、チャット欄には明るい言葉が次々と並んでいく。
『では、そろそろ時間なので、ここまでにしたいと思います。あ、今週末、夜ライブ予定してるので、また告知出しますね。それと』
 閉めの言葉で「夜ライブ」という単語が出たとたん、またチャット欄がざわざわと活発に動いた。
『そうそう、うん、だいじょぶ、ちゃんと告知しますよー。Whisperで囁きます。今日はほんとにありがとうございました。そろそろ終わりにしますね。あ、おまけ。いま弾いた曲〝祈り〟、とある新作アニメのエンディングに決まりました。この件も次のライブで詳しくお話ししますね。みんな、忙しいお昼時にありがとう。それじゃまた。Mでした。バイバイ』
 終わり間際の爆弾発言。またもチャット欄は大混乱状態に陥ったが、Mはそのまま閉めの挨拶をし、ライブを切った。
 動画画面が、他の動画への誘致バナー画面に切り替わった。時計は、午後一時二十分。
 つばさとさくらは、まだ手を握り合って固まっていた。
 ふたりとも、同じことを考えているのが、お互いにわかった。だから、黙っていた。
 まさか。
 まさかMの動画でカリンバの話を聞くなんて。
「……あっちゃん先輩……いまの話……」
「言うな」
「あっちゃん先輩」
「伝説だから」
「でも」
「いいから! 片づけるよ」
 つばさは、強い語気に反して、握っていたさくらの手からそっと自分の手を離した。
 さくらはちょっと息をつくと湯呑を片づけはじめ、つばさはタブレットの電源を切ると更衣室へ入った。
 『キーはピアノ線の三十六キー、材質はアンダマンパドウクのソリッド型……』
 さくらは茶碗を洗ってふきんで拭くと戸棚に戻しながら、そっと独り言ちた。
「……呪いの……カリンバ……」