カリンバは、夢を囁く。

 それは、市役所の医務室を出たあとの話。
 鈴里山は君影市の郊外にある山で、昔から市民の憩いの場所だ。周辺一帯が「鈴里山公園」として整備されており、アスレチックやバーベキューができる施設を備えたかなり広大な芝の公園や展望台、ガラス工房、動植物園などがある。展望台からは市街地が一望でき、遠足や近隣住民の散歩コースにも利用されている。
 今日はこの季節にしてはめずらしく快晴だったが、やはり気温はそんなに高くなかった。二月も末、園内の梅林の梅がちらほら咲き始めていた。
 駐車場に車を停めると、眞嶋は展望台へ続く短い坂道を上った。坂を上り切ったところで、なにが起こっているのかやっと事態を把握する。そういえば、平日なのに駐車場に停まっている車がやけに多かった。
 展望台の十メートルほど手前に、赤いカラーコーンとコーンバーで立ち入り規制が設置されていた。ここから先には関係者以外入るなということだ。
 なるほどね、そういうことか。大変だね、あの業界も。
 展望台を取り囲むように人垣ができていて、それがみんな同じようなスタジアムジャンパーを着ている。加えて、カメラやライトなどさまざまな撮影機材。
 それらに取り囲まれた中央にあるベンチに、テレビでよく見かける熟年男優とかわいい少女が座って景色を見ている。
 誰もなにも言わず、時間が流れていく。
 そして。
「カット! OK!」
「おつかれさまでした、十五分休憩でーす!」
 静まり返っていた周辺が一斉に動き出した。
 ベンチに座っていた男優と少女のところに、それぞれの付き人だろう人物がとんできて、なにやらいろいろ言葉をかけている。俳優ふたりはおたがいにっこり笑いあって、スタッフを従えて仲良くその場を離れた。
「大変だね、どうも」
 眞嶋の隣に並んだ桑田がため息まじりに言った。そのちょっとうしろで、桑田の相方である原も苦笑いを浮かべている。恵の交友関係を洗うとなったら、とりあえず今はここから始めるしかないのはしょうがない。
「で? 自分は誰を?」
 監取りのはずが撮影現場だ。かなりややこしいことになっているのが、今来たばかりの眞嶋にもなんとなくわかった。
 桑田は俳優たちから目を離さず、眞嶋に告げた。
北田きただ秀俊ひでとし。あのときたぶん一番近くにいたと思われる。まあ、なんも出ないとは思うけどね」
 北田秀俊。ベンチに座っていた俳優だ。
「一応、話は通ってる。許可も取ってるから。警察手帳おフダ見せたらしゃべってくれるよ」
 そう言って、桑田と原は眞嶋のそばを離れた。
 北田は、大物といっていいクラスの俳優だ。そろそろ還暦を迎える年齢で芸歴四十年。一般にいう「小太りなおじさん」というイメージに該当しているが、そのが愛嬌があっていいとウケているらしい。の体形で、実はバリバリのアクションもこなしてしまうというギャップも人気の一因だ。舞台、テレビ、映画、バラエティー他、俳優以外にも歌手や司会者としてもいい仕事をしている。あまり悪い噂を聞くことがなく、もちろん眞嶋もドラマや映画でよく見知っている人物だ。
 自前のキャンピングカーで撮影に臨んでいるらしく、車の前に置いた作りの良さそうなディレクターズチェアにかけて、スタッフにメイクを直してもらっている。
 眞嶋は近くにいたスタッフに警察手帳を提示し、北田に取り次いでもらった。
「お忙しいところ申し訳ありません。すずらん署の眞嶋と申します。少しだけお話を伺ってもよろしいでしょうか」
 そう言った眞嶋に、北田はすっと笑顔をひき、椅子から立ち上がるとゆっくり深々と頭を下げた。
「話は聞いております。わたしにわかることでしたらなんでもお答えします。どうか犯人を捕まえてください」
「お顔を上げてください。北田さん」
 まさかこの大物がいきなりこんな謙虚さをみせるとは思っていなかった眞嶋は、慌てて彼に椅子をすすめた。
 それに素直に従った北田は、もとの椅子に腰を下ろした。
「あの子はいい子でね。彼女のデビュー作で共演したのがきっかけで、ずっと仲良くしてもらってます。こんなおじさんにもくったくなく接してくれて、優しくて明るくてねえ。この作品も、彼女の地元への凱旋作になると聞いたんで喜んで引き受けたんですよ。市役所はあの子のもとの職場でしょう。あそこが原点だ。ミスすずらんに選ばれて、そこからこの世界に来た。懐かしいって張り切ってましたよ。それが……あそこであんなことになるなんで……」
 暗い声でつぶやくようにそう言った北田は、さらに深く椅子に沈み込んだ。
「どんな理由があろうが、役者が命を懸けてる芝居を途中で邪魔する奴は、絶対に許せん……」
 口調は静かだが、その眼光に殺気のようなものを感じる。
「眞嶋さん、とおっしゃいましたか? 恵紗羽は、いい役者です。わたしが保証する。今回は大事には至らなかったかもしれないが、これからの役者であるあの子の経歴に曇りがあっちゃならない。よろしくお願いします」
 また眞嶋に向かって頭を下げた。
 眞嶋は、役者の世界のことはわからない。が、仕事と仲間に対する思いは、それがどんなものであれ、なにか共通しているものがあるのだろうということは理解できる。北田が先輩として恵を本当にかわいがっているのがよくわかった。
「では、北田さん、事件当時のことをうかがいたいのですが、あなたは警備員役でエントランスホールにいらっしゃったんですね?」
 眞嶋の質問に、北田は頷く。
「あのシーンは、彼女がトイレから出て廊下を通りエントランスホールへ向かうシーンです。考えごとをしていてごみ箱を蹴飛ばし、そのごみ箱をわたしが直し、そのまま彼女はエントランスホールへ向かう。そういう流れを撮る場面ですね」
 なるほど。
「ということは、概ね台本通りに進んでいたわけですね?」
「そうです。何度か窓の外を見ているようでしたが、あの場面は彼女の気持ちのシーンでね、自分のなかで仕事の段取りを考えながら歩いていてごみ箱につまずくという設定なので、別におかしくはありません。ごみ箱を蹴り倒したことで却って気合いが入ってまっすぐにエントランスへと歩くんです」
 そこにいきなり黒ずくめが突っ込んできた、というわけか。
「北田さんはそのときどこにいらっしゃったんですか?」
「警備員の立ち位置は正面玄関自動ドアのところですが、わたしはあのときごみ箱を直していたのでトイレへ向かう廊下にいました」
 ということは、突進してきた黒ずくめを恵の背中側から見たということだ。
「なにかお気づきになったことはありませんか?」
 眞嶋の問いに、北田はしばらくうつむいて考えていたが、申し訳なさそうに首をひねった。
「いや……とくに気づいたとかそういうことはなかったですね。黒い塊みたいなのが紗羽ちゃんにぶつかって、わたしの左側を通って奥の通路へ駆け込んで行ったというのが全部です。紗羽ちゃんが倒れて床に血糊が流れ出したのでそっちに気を取られて……追いかけることができませんでした」
「いや、それでいいんです。どんな人物だかわからないのに追うのは危険です」
 撮影スタッフや周囲にいた関係者が黒ずくめを追ったが、結局取り逃がしていた。相手が危険人物かもしれない場合、素人の深入りは禁物だ。二次災害のもとになる。
 そこへ、気を遣って離れていたスタッフがそっと近づいてきた。そろそろ時間らしい。
「北田さん、すみません。貴重なお時間ありがとうございました」
「もうよろしいんですかな」
「今はこれで結構です。またご協力いただくかもしれませんが、そのときはよろしくお願いいたします」
 メモを取っていた手帳をジャケットのポケットにしまってそう告げた眞嶋に、北田はにっこりと頷いた。
「刑事さんというのも大変なお仕事ですなあ。いくらでも協力しますよ。じゃあ、準備がありますのでこのへんで」
 メイクスタッフが仕事をはじめたので、眞嶋は一礼するとその場を離れた。
 さきほど桑田が言ったとおり、なにも出ない。普通に事実の確認がとれただけだ。
 この場にいても邪魔をするだけだと思ったので、眞嶋は場所を移そうと駐車場へと歩き始めた。
「あのぅ、すみません」
 背後から声を掛けられて立ち止まる。
 ジーンズとトレーナーにスタッフジャンパーを羽織り、紙製の手提げ袋を持った女性がいた。首からスタッフ証をかけている。
「あの、すみません、刑事さん、ですよね?」
 おそらく本物の刑事というものにはじめて会ったのだろう、かわいそうなくらいおろおろしているので、眞嶋は努めて優しく返事をした。
「はい。なにかありましたか?」
 すると、笑顔が効いたのかあきらかにほっとした様子で話し始めた。
「あの……これ、恵さんの衣装からでてきたんですけど」
 そう言いながら、女性は手提げ袋からハンカチで包んだなにかを取り出して眞嶋に差し出した。
「衣装? 事件のときに恵さんが着ていた服ですか?」
「はい。えっと、わたし、衣装係をしているもので、それで、えっと、市役所からこちらに移動するときに預かったんです。仕込みの血糊が予想外のところで漏れたのでクリーニングもしなきゃならないし、もし破れてたりしたらお直しも必要なので。そしたら、ベストのポケットからこんなのが出てきて」
 ハンカチを開くと、そこには一本の針金のようなものがあった。太さ一から二ミリ、長さ七センチほどのおそらくは鉄でできたまっすぐな棒状のもの。
「一応、撮影ではあのあとに怪我をするシーンを撮る予定だったので、朝から血糊を仕込んだ衣装を着てもらっていたんです。衝撃が加わると破裂して血糊が出る仕組みなんですが、万一のことを考えて恵さんには腹部に簡易のプロテクターも付けてもらっていました。最初はそのプロテクターの部品かと思ったんですが、こんな鉄でできてる棒状のものは部品として使われていなかったので、それでおかしいなって。もしかすると恵さんの私物かもしれないですが、それにしてもこんなものを本番中に持ち歩くなんて考えられないですし。でももしかしたらまったく関係ないものかもしれないんですけど」
 事件がかなり怖かったのだろうか。別に求めたわけではないが、そのスタッフは自分から積極的にしゃべってくれた。しゃべることで安心しようとしているようにも見えた。
「その衣装、見せてもらうことはできますか?」
「え? はい、えと、いえ、その……ないんです。別のスタッフがクリーニングに出しちゃったのか、置いてた場所になくて」
 申し訳なさそうにうつむく。
 おいおい、鑑識はなにやってんだよ。普通なら物証として押さえるだろ――と思ったがそこは口には出さず、笑顔のままで言った。
「いえ、いいんです。気になさらないでください」
「あ、でも……」
 女性は手提げ袋の中からスマホを引っ張り出して操作する。
「えと、えとですね……あ、これです。どうぞ」
 眞嶋に捧げるように、両手でスマホを差し出した。
 画面には、恵が着ていた衣装の写真があった。それも複数枚、さまざまな撮り方をされたものが。
「あまりに血糊が広がっているので、今回の撮影には使えませんからクリーニングにだそうと思ったんですけど、その前にもしかしたらなにかに必要かもって思って。やっぱりほら、証拠の品、ってやつですか?」
 ドラマの見過ぎ……いや、それを撮ってるのか、ここでは。
「ありがとうございます。この写真データ、お借りすることはできますか?」
「え? たぶん……ちょっと待ってくださいね、詳しい子に教えてもらうので」
 その後、無事にそのデータは謎の針金状のものといっしょに眞嶋の手に渡った。そして、眞嶋は針金を三田に預けた。正体はなんなのかそれを知りたくて。
 確認をしなければならないのは。
 あれが恵のものかどうか。
 こころあたりがあるかないか。
 仮に恵のものでなく、こころあたりもないとしたら。
 どこでどうやってベストのポケットに入ったのか。
 そして。
 あれが本当にカリンバのキーなのか、違うのか――。
 ミーティングルームに戻ると、羽場とららがなにかを真剣に話し合っていた。
「ああ、来た来た。遅かったな、なにしてて……どないした?」
 眞嶋は羽場のそれには答えず、ふたりの前に紅茶とコーヒーを置いた。
 ららもなにかがおかしいと思ったが、自分が突っ込むとさらにやっかいになるかもと、慌てて席を立つ。
「あのっ、じゃあわたしはこれで失礼します。宮園さんの件はわかりましたので」
 タンッ!
「わっ」
 眞嶋が自分のコーヒーをテーブルにたたきつけるように置いたため、ららは手にした紅茶を思わず抱きしめた。
「……悪い、御堂。ごめんな、驚かせて。なんでもないから」
「は、はい。ではお先に失礼します」
 ららは、茶碗をお盆にのせてふたりにぺこんと頭を下げると、足早にミーティングルームを出て行った。
「おい、なにがあった?」
 隣に座った眞嶋に、羽場が詰め寄る。事件を抱えているわけでもないのにこんなに機嫌が悪い眞嶋は珍しかった。羽場の問いには答えず、コーヒーのプルトップを開ける。そして。
「めぐちゃん、怪我してなかったよな」
「めぐ? ああ、頭痛がする言うてたけど、だいじょぶ……あー、いや、なんか転んだときにおかしなとこ擦りむいたらしいけど、でかい怪我やないな」
「擦りむいた? 手足か?」
 羽場も自分のコーヒーを開ける。
「膝と、あとなんか……どうも右の脇腹んとこちょっと擦りむいたらしくて」
 右脇腹?
「ほら、衣装に仕込んでた血糊、あれが流れて大騒ぎになったやろ。あの血糊入れてたところがちょっと傷ってたらしくてな。それがどないしてん」
 衣装。
 血糊。
 右脇腹。
 黒ずくめの不審者。
 カリンバの、キー……。
「羽場……」
「ん?」
「めぐちゃん、警護つけたほうがいいかもしれん」
「……なに?」
 いきなりの物言いに羽場は慌てて座り直した。
「なんやそれ」
「もしかすると、あれは殺人未遂かもしれないってことだ」
「なんやて!?
「いま、三田に鑑定してもらってるが、めぐちゃんはただ突き当られただけじゃなく、刺されそうになったと考えていい」
 羽場の顔色が変わった。
 眞嶋が続ける。
「鈴里山公園の撮影現場で、俳優の北田秀俊と数人のスタッフに話を聞いた。帰りがけに、衣装スタッフがあるものをくれた。おそらくそれが凶器だ」
「あるものてなんや。いや、その話、詳しく聞かせろ。なんでめぐが」
「どっちにしろ。おかしな点が多すぎる。なぜめぐちゃんが狙われる? このところずっと首都圏で仕事してたんだろう? 仮に彼女に恨みを持つ者の犯行だとしても、あんな確実性のない狙い方はデメリットしかない。彼女を襲って誰になんの得があるんだ? しかもあんなもので」
「だから、あんなものてなんやねん!」
 眞嶋はそれにも答えず、目の前にあった中華まんを手に取る。多少冷めてはいるが、またほんのり温かい。
 あの針金がただの針金だったなら、こんなにひっかからない。カリンバのキーかもしれないと聞いたことで、どこかのスイッチが入った。絶対、なにか、意味がある。ひとを襲うのに、わざわざ意味のある得物を使うなぞ、普通はあまり考えられない。身元が割れるかもしれないものは絶対に避けるはずだ。
 「カリンバのキー」で「襲われた」「地元出身の新進女優」――。
「おい、眞嶋。おまえもしかして」
 深呼吸をして大きくひとつ息をつくと、羽場がやんわりと口を開いた。
「もしかして、めっちゃんこ腹減ってないか?」
 手にした中華まんをみつめてなにか考えているふうだが、これはなにか違うと羽場は感じた。伊達に長年付き合っているわけではないらしい。
「飯、食いに行くぞ。おまえ昔から腹減るとろくなこと考えへんし」
 まだ中華まんとにらめっこをしている眞嶋をそのままに、羽場はさっさと片づけをはじめた。
「てか十時か。うち来い、鍋しよう、鍋。とりあえず、食って寝ろ。休みふいにしたんや、せめて夜は寝ろ。そや、うちで鍋しながらMちゃんの昼ライブみよう。それがええ」
 テーブルの上にあった眞嶋の戦利品をエコバッグにつめ、備え付けの除菌シートでテーブルの上を拭くと、椅子を定位置へと直す。
「ほら、立て。行くぞ」
 エコバッグを持つと、眞嶋を立たせる。
「いや、ちょっと待て」
「待てるかいな。とりあえずお互い確認せなならんことが山積してるらしいしな、とっとと飯食ってさっさと情報交換して寝るぞ」
「めぐちゃんは」
「めぐは、撮影中はうちには帰ってきぃひん。週末にちょこっと戻るって言うてた。せやから安心せぇ」
 羽場は眞嶋の背中を押して有無を言わせずミーティングルームから追い出し、灯りを消しドアを閉める。
「ちょ、羽場っ」
「うるさい。おまえの暴走抑えられるのはオレだけや。逆もまた真なり、やろ? ええ鱈あんねん、たらちりにしよか。ほら、深呼吸」
 ばん!
 思い切り背中を叩かれて、眞嶋は思わず息をつめ――深呼吸する。
 スイッチが、切れた。確かに羽場の言うとおりだ。さすが相棒――
「飯食って仕切り直しや。行くで、相棒――あ。財布返せよ」